こんにちは
村松 いさおです。
先日、日本におけるゲシュタルト療法の第一人者である、百武正嗣さんのセミナーに行ってきました。
氏は僕のメンターの一人から推薦された方であり、常々お会いしたいと思っていいた人です。
いやー、久しぶりに面白い体験をしました。
今日は、そんなお話。
「ゲシュタルト療法」とは、アメリカの精神科医フレデリック・パールズとその妻ローラ・パールズ、そしてポール・グッドマンが確立した心理療法で、ゲシュタルトとはドイツ語で「形・形象」を意味し、心や身体をバラバラに捉えるのではなく、人間を思考や感情、身体などを「全体」として捉え、「今、ここ」で起きていることを焦点をあて、気づきを促す療法です。
決して、「漢字見ていたら、なんかよく書き方がわからなくなってきた」というものではありません・・・・。
まー、ようするに「感情だけでなく思考や身体の変化など、人をまるっと全体でみてみよー」という心理療法です。たぶん。(← テキトー・・・)
1 day のセミナーでしたが、僕がこれまで習ってきたカウンセリング手法と、似ている部分もあれば、まるで違う部分もあり、いろいろ大きな発見があった内容の濃い1日となりました。
百武さん、面白かったし。(ゲシュタルト療法では、ファシリテーター(=カウンセラー)とクライアントの対等性を重んじるため、「先生」と呼ぶと、もれなく直されます。笑)
機会があれば、ゲシュタルト療法もガッツリ勉強したいと思います。(けっこう自分にあっている気がする)
さて、そのセミナーの中で、「ストーリーと事実」というお話が印象的でしたので、ここでシェアさせていただこうと思います
僕たちは、ある「事実」に遭遇すると、そこに半ば自動的に「解釈」を与え、「ストーリー」を作り出してしまいます。
本来は事実の連続でしかないことでも、そこに解釈が入ると、ストーリとして組み上がってしまう。
例えば、今日、僕は池袋駅で可愛い女の子を見ました。
この場合、事実は「今日、僕は女の子を見た」だけですが、そこに「可愛い」という主観が入ると、それは「解釈」になります。
さらに、その女の子がおじいさんに道を教えてあげている場面だった(事実)とすると、「優しい子だな」という解釈がはいり、
今日、僕は池袋駅で可愛い女の子を見たんだけど、人に道を教えてあげてたから、きっと優しい子なんだろうなーーー
というストーリーが出来上がってしまいます。
これが心理学で言う所の
「事実は一つ、解釈は無限=あなたにとっても真実も無限」
という奴で、まぁ、「頭脳は大人、体は子供」の某有名探偵さんとは大違いです。
一つ注意しなくてはならない点は、これは「解釈したり、そこからストーリーを組み立ててしまうということが、良い悪い」という話ではありません。
むしろ、僕たちは、事実を都合に合わせて(半ば自動的・無意識的に)解釈する「性質」を持っていると言えそうです。
ほら、あれですよ。「丸が3つあれば人の顔に見える」という奴。あんな感じなのかもしれません。(ちょっと違うか?)
ですが、この「事実」と「ストーリー」は「違う」ということをちょっとだけでも頭の片隅に置いておくと、様々な場面に遭遇したとき、見方の一つとして役に立つのではないかと思っています。
特に、人は「悲しいストーリー」と「幸せなストーリー」が好きなので、様々な事実を「解釈」してストーリーに仕立て、そこに執着することも珍しくありません。
僕は小学生の頃、雪見遠足に母親と行った時、えらく母親から怒られたことがあり(たぶん、何かやらかしたwwww)、その時母親から言われた一言を、その後随分と引きずったことがあったんですね。(おそらく、それも僕の無価値感形成に一役買っていると思うのですが。)
んで、心理学の勉強をし始めて、母親に意を決してその時の事を問いただしたのですが、
「え?そんなこと、あったけ?」
と、当の本人はすっかり忘れていました・・・・・。
雪見遠足に行く → 僕、やらかす → 母親激おこ → 母親が一言放つ は事実ですが、
それを「自分は母親に認めてもらえてない」「自分は悪い子なんだ」という解釈をし、無価値観のストーリーに仕立て、そこに固執していたのは、実は自分自身だったんです。
皆さんも、もし心の中に忘れなない出来事があったとしたら、その時に起きた「事実」とそれを「解釈」して作った「ストーリー」とを、一度きちんと分離して考えて見ても新たなことに気づくかもしれません。
あ。くれぐれも、解釈をするのは脳のちょっとしたクセのようなものなので、そこで「良い悪い」と判断したり、自己嫌悪に使わないように注意しくださいねーーー。
というわけで、
「事実」と「ストーリー」は違うよ。
というお話でした。
今日はここまでにします。
あなたの幸せのヒントになれば幸いです
では、また。